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NPO法人じぶんで作る自分史の会

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当会について

ご案内

自分史を身近に
じぶんで作る自分史の会は、より多くの方に、楽しみながら自分史づくりに取り組んでいただくことを目的に発足しました。

従来、自分史というと、テーマを決め、原稿を書き、推敲を重ね、本にするといった流れであり、個人で取り組むにはややハードルの高いものでした。
また、自分史だから何を書いてもいいと言われても、何から着手したらいいのかわからない、というのが実情でした。

興味はあっても、なかなか身近でなかった自分史づくりを、楽しみながら取り組んでいただく・・・。そんな自分史づくりのガイド役となれるよう、初心者の方と同じ目線でサポートすることをめざしています。
自分史づくりを通して、家族のつながりやふれあいが、より深く、より強いものになることを願っています。
(NPO法人化2010年3月)
私たちが考える、自分史のあり方
自分史は、内容の善し悪しではなく、会の名称にもあるように、自分で作る、すなわち、自分で書くことに意義があると考えます。

文章を書くことが苦手な方は多いこととは思いますが、たとえたどたどしい文章、不完全な文章であっても、価値ある一冊であることに変わりはありません。

また、ご家族による「聞き書き」で、ぜひチャレンジしてください。
かけがえのない一冊が出来上がることでしょう。

事務局
701-1205岡山県岡山市北区佐山2107-2
NPO法人じぶんで作る自分史の会
代表 亀井典彦

info@npo-jibunshi.com
(当会へのご連絡は、メールもしくは郵便にてお願いいたします)
貸借対照表
平成29年度の貸借対照表(PDF)
平成30年度の貸借対照表(PDF)
著書ご案内


勝山竹細工
熟達の職人たちが挑んだ産業継承への4つの壁
(2013.12 発刊)
亀井典彦 著

岡山県に伝わる伝統的工芸品、勝山竹細工について、関係者への取材や資料を基に、2013年に冊子にまとめたものです。
記述にあたっては「聞き書き」による手法を多用しています。ぜひご参考になさってください。事実の紹介、本人の弁等、「聞き書き」だからこそできる表現があります。

本冊子は完成後、取材協力していただいた方々にお渡しすると共に、真庭市図書館、岡山県立図書館、国立国会図書館、武蔵野美術大学図書館等に寄贈しました。
以下、冊子巻頭の序文です。

はじめに
勝山竹細工(かつやまたけざいく)は1979 年(昭和54 年)に、当時の通商産業省より指定を受けた伝統的工芸品である。同じく、岡山県の伝統的工芸品である備前焼よりも早く、県下で第一号の指定獲得であった。
勝山竹細工の存在自体はずいぶん前から知っていたが、人間国宝を5人も出した備前焼から比べると注目度も低く、また、竹製品自体、日用品として普段目にする機会も少ないものであった。そんな認識のまま、2011 年のこと、ふと産地を訪問し、製作風景を見学してみたい思いに駆られた。見学可能な工房あるいは職人の居所を調べようと、岡山県真庭市役所に電話を入れて問い合わせてみると、現在、勝山竹細工を製作している職人はわずか1 名のみという返事。もはや、地場産業と呼べないほどに衰退している事実を知った。
現在、備前焼は個人作家や窯元など含めて300 人以上が従事している。それに対して、同じ伝統的工芸品の勝山竹細工はただ1 名のみ。
この落差に唖然とするとともに、ともかく行ってみようと2011 年秋に現地を訪ねた。
運よく、竹細工職人の川元重男さんの家を見つけることができ、突然の訪問にもかかわらず、ちょうど製作中の仕事場でお話を聞かせていただいた。70 歳を過ぎたいまも、流れるような作業。全身を使い、まるで赤ん坊を抱くようにしながらかごを編上げていく。かつて、全国の百貨店などで開かれた伝統工芸展で実演販売をしたそうだが、おそらく、私と同じように、多くの人がその作業に見入ったことだろう。
勝山竹細工の衰退ぶりはまったくもって残念だが、こうした状況は、全国有名無名の伝統産業、手作り品、工芸品に共通する課題だろう。国による伝統的工芸品の指定は、つまり、後世に伝えるべき手仕事であり、産業振興の価値あり、可能性ありと判断されたはずのものである。多くの伝統工芸品は将来を楽観できる状況にはない。勝山竹細工の実例は、こうした状況を理解し、また、それを打破する糸口を探るものとして検証してみる価値があると思い、今日に至った要因を探し出すことを本冊子のテーマとした。

興味のある方はご一読ください。新しいウインドウで開きます。
PDFファイルで全76ページあります。
 
著書ご案内


砥部・梅山窯の大将と三羽烏
(とべ・ばいざんがまのたいしょうとカラスたち)
戦後の砥部焼を復興させた陶工たちの足跡
(2014年/平成26年12月発行)
亀井典彦 著

砥部焼(磁器)は愛媛県の代表的な特産物(伝統的工芸品)です。現在は100を超える窯元がありますが、戦後はわずか数件のみが細々と花器や輸出用の雑器を作っている、全国的に見ても機械化に取り残された後進地でした。
どん底とも言える状況から、どうやって今日に至る産地再生を果たすことができたのか。当時を知る陶工、元陶工、関係者たちに取材し、一窯元での取り組みをまとめました。陶工たちが語る言葉は、そのまま、本人の人生を語る「自分史」ともいえる内容でした。

なお、この冊子は少部数で制作され、取材にご協力いただいた方々にお配りすると共に、砥部町立図書館、愛媛県立図書館、松山市立図書館、および国立国会図書館、武蔵野美術大学図書館等に寄贈いたしました。

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I026912744-00

以下、本書の序文です。

はじめに

昭和20年代の終わりから40年代にかけて、砥部焼は大きな変革の時を迎えていました。
それは、当時、愛媛県知事であった久松定武が、学習院・東京帝国大学で同窓であった民芸の柳宗悦とバーナード・リーチを砥部視察に招いたのをきっかけに、濱田庄司、鈴木繁男が砥部に来て指導。続いて、砥部焼の白磁に惹かれた富本憲吉が来砥し、鈴木繁男の後を受けて富本門下の藤本能道が指導することで、砥部焼は加速度的に変貌を遂げていきました。
柳をはじめとした民芸の人たちが「無名の工人による無意識の美」を説いたのに対し、富本憲吉は「独創的な模様創出」の大切さを説き、砥部焼はふたつの思想を融和させながら、全国的にも例を見ない独自のスタイルを形成しながら発展を遂げていきました。
こうした変化を実際に突き動かしていったのが、梅山窯(梅野精陶所)の若き四代目・梅野武之助と、彼の元に集まった、当時、二十代前半の三人の若手陶工です。
これまで断片的にしか語られてこなかった一窯元での取り組みを、史実や証言をもとに整理してみました。
ここに書かれているのは、梅山窯の陶工たちが「大将」と呼び親しんだ梅野武之助を中心にした、約10年間にわたる足跡ですが、その成果はやがて産地全体へと影響を及ぼしました。
白磁に呉須の染付。色絵付けされた食器や花器。砥部焼の代表的ともいえるこのスタイルが形作られ、広く認められるまでには、縁あって武之助と出会った人たちの助言や励ましがあり、彼を支える三人を中心とした多くの陶工たちの挑戦と奮闘があったことを知っていただければと思います。

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