本文へスキップ

手作り自分史テキスト無料配布|NPO法人 じぶんで作る自分史の会

簡単に作れる自分史冊子、無料でお使いいただけます


「聞き書き式」自分史のすすめ。

あなたの、おじいさん、おばあさんの自分史を作ってあげませんか。
あなたが聞き役。おじいさん、おばあさんが話し役。
語ってくれた要点をそのまま記入する。
それだけで、世界で一冊の自分史が出来上がります。
おじいさんとおばあさんとの共同作業で作っていく、「聞き書き式」自分史。
きっと素晴らしい時間になることでしょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自分史づくりに必要だった1)文章力 2)時間 3)費用 はもう必要ありません。
むかしばなしを語る気持ちで書き留めたら、世界でたった一冊の「手づくり自分史」が完成します。

ご自分で書くのはもちろん、本人に代わって、あなたが父、母、祖父、祖母、ご親戚の方々の自分史を書いてあげませんか。
きっと素晴らしいプレゼントになるはずです。

「むかしばなし自分史」づくりで、家族のふれあいを。
■簡単シンプルな自分史スタイルです
祖父母、父母の自分史があったらいいなと思う、あなたが作ってあげましょう。
■あなたが、聞いて、書いて、冊子にする「むかしばなし自分史」。
■父の日、母の日、敬老の日、家族が揃うお正月、お盆が、いい機会。
■聞くだけではもったいない、書き残して、形に仕上げましょう。
■「むかしばなし自分史」づくりは、親、子、孫の三世代を結びます。
■思いついたことを書いてみる・・・お一人でもできる自分史です。
■文章が下手。でも、それでいいんです、じぶんで作る自分史には、思い入れがあります。

 

 

↑「むかしばなし自分史」の一部分です)

TOPICS 無料ダウンロードできます

  • かんたん自分史冊子「むかしばなし自分史」標準版、PDF無料配布をはじめました。
  • かんたん自分史冊子「むかしばなし自分史」たっぷり自由記述版、PDF無料配布をはじめました。聞き書きする際の記録ノートとしても便利です。
  • 文章を書くことに少し慣れたら、自由記述のかんたん自分史冊子「辿った道、続く道」をお試しください。PDF無料配布中。
  • 本格自分史にチャレンジしたい方は、こちらをご活用ください。自分史づくりのガイドブック「iSTORY(アイストーリー)」。自分史作成のヒントとなる設問をたくさん用意しています。PDF無料配布中。



「聞き書き」による自分史作成の一例

●これからご紹介するのは、代表の亀井が2016年末に発刊した、「聞き書き」手法による叔父の談話録です談話の内容は、子ども時代や家族のことなど、個人史的なものとなっています。
●完成した冊子(30部程度)は親戚知人の方に配布しました。
●「聞き書き」は、本人に代わって別の方が取材し、それを活字化する手法です。
●本人が原稿を書くのではなく、話を聞いた人が文章にしますので、本人に負担をかけません。
●その実例としてご紹介しますので、ぜひ、挑戦してみてください。
●なお、本人の話は方言まじりですが、そのまま記述しています。

//////////////////////
タイトル I・S 談話録
話す本人 I・S(昭和10年生)
取材日時 2010年4月16日午後 I・S叔父宅にて 
取材時間 約2時間
録音機材 ICレコーダー(ソニー製 USB端子付)
//////////////////////

【聞き方のヒント】 
まず、一番話しやすいと思われる事柄から聞いてみるのがコツです。

「父母や、家族、兄弟、親戚のことを教えてください」

●家族、父母のこと (※個人名は伏せています)

母は昭和34年に亡くなったけど、母屋の下にあった堀で、孫をおんぶしてミカンだか野菜を洗っていて倒れたんよ。わしら兄弟はみんな外に出ていて、家にいなかった。S兄も仕事から帰っていなかった。K子が役場に勤めていて、K子に誰かが連絡して、母親が倒れたと電話で連絡してくれて、すぐに家に帰った。
脳梗塞じゃった。意識が戻らず、そのまま。3日ほどで亡くなった。
神戸のN兄も帰ってきて、いびきをかいて昏睡している母に声をかけよった。それから1時間もせんうちに息を引き取った。
Nが帰ってくるのを待ちわびて、声を聞いて安心したように息を引き取ったなあと、みんな言っていた。

母はガミガミ言う人ではなかったが、シンは強かったなあ。
わしが足が悪かったとき、月に一回、水がたまるとM市の日赤病院に治療に連れて行き、妹(Tさん)の住まいがD温泉駅の近くにあった。
そこに寄って、足が悪かったので、治療になるだろうと温泉へ連れて行ってくれて、温泉で泳いだ。「ぼっちゃん、また来たかえ」いうて、女風呂に連れて行ってくれたりした。わしがまだ3歳くらいの頃よ。そうやって温泉につかったのもよかったんじゃろな。

「おじさんは足が不自由だけど、いつからそうなったのですか」

上の兄(Y)は足をなくし、わしはカリエスでこうなった。

親父の兄弟が結核にかかり、離れで闘病生活をしていて亡くなったが、そのときの結核菌がどこかに残っていて、わしにうつったのかもしれんな。
わしは結核性のカリエスなんよ。骨に転移して、足がこうなったんよ。

足が悪くなったんは、いまで言う医者の医療ミスみたいなもん。2−3歳の育ち盛りの頃に鉄の義足をはめて、固定してしもうたんよ。1年に何センチも伸びる頃に固定してしもうたけん、骨が骨盤のほうに来てしもうた。骨の長さがこれだけ違うんよ(と見せる)。そんな治療したからこんなちんばになったんよ。
その頃の治療方法の間違いだったんやろ。成長盛りの時に固定したのがいかんかったんよ。

その義足は3年間くらいはめていた。小学校に入るくらいまでしていた。
1年に一度くらいは義足のサイズを調整していたんじゃろうけど、その交換よりも、伸びる方が早かった。間に合わんかったんじゃろな。
とはいえ、日赤での治療は当時の先端医療やったんよ。

母親は、自分の子どもじゃし、責任を感じて、だから、一生懸命、治療してくれたんよ。

「叱られた記憶とかは」

わしが小学校2−3年頃に、いたずらしたり、よそで叱られるようなことをすると、父親は黙って睨みつける態度を示すだけだったが、お袋はわしの身体をつかんで怒りよったわい。
子どもに対する責任感が強い人だったんよ。

N兄は養子縁組で姓が変わったが、帰省した折、「わしは口減らしで出されたようなもんじゃ」と、すねたようなことを言ったら、お袋は泣いて怒ったわい。
そんなつもりで養子に出したんじゃない、と。

「どんな子供時代でしたか」

わしは小学校の頃からみんなと一緒になってよく遊んだ。
「はちけん」いうて8の字ケンケンの陣取りして、みんなと走ったり、跳んだりな。
家に機織り場があって、そこで出た糸くずや綿を集めて、家にあったコルクを丸く削って芯にして、それに糸と綿をぐるぐる巻いて、ボールを作った。
Y兄が牧場の勉強に行っていたので、家には家畜の山羊やウサギの皮があり、それを分けてもらって、8の字型の型紙作って、皮を切り、糸で縫って硬式ボールみたいに作ってそれで遊んだ。友達からも好評で、紛失してしまうとまた作ってくれとせがまれたりした。

スポーツが好きだったから、こんなに元気になれたんよ。足が悪いのに、わしが中心になってボールやバット作って遊んだりするもんじゃけん、みんな集まってくれた。

「中学生時代の思い出とかは」

中学校に入ったら、T中が駅伝に参加するので自分は自転車こいで伴走役を買って出たりした。旧T中から供養堂のあたりまで、砂利道を自転車で走った。
M校長の頃やった。生徒は裸足で練習しよった。
8人くらいでリレーするのだが、最初のランナーが就職試験があるので出られなくなり、代わりに、Tという短距離が得意な子が交代して走った。
22校くらいが参加して、12位くらいだった。それからランナーが次々追い抜いて、D公園からT浜往復の、電車開通を記念しての大会だったと思うが、最後には4位に入賞した。

そのことを校長が朝礼の時に、「まだ道ばたに雪が残っている頃、みんな裸足で練習して、その成果が出て県下で4位を勝ち取った。みんなの努力のたまものだ」と褒めてくれた。

当時、T中の駅伝は強いと言われとった。

G線電車開通の時も大会があったんよ。そのときもD公園がゴールで、県庁の前で一人追い抜いて3位に入ったんよ。わしは自転車で伴走したんよ。

中学校では選手として出ることはできんかったけど、バレーボールのトスを上げる役割をした。当時は9人制しかなかった。
卓球部の練習もしたな。スポーツが好きだったから友達も多かったんよ。

町の大会ではわしが前衛のセンターでトスを上げる役割だった。野球ではピッチャーもキャッチャーもした。
スポーツをやって元気になれたけど、無理したけん、いまは腰が痛いんよ(と笑う)。

「おじさんの兄弟姉妹のことについて、それぞれわかっていることを教えてください」

●兄・Yのこと

現在のI高校に自転車で通っていた。
通学途中に砂利道でこけて、骨を損傷するほどの怪我をした。
それが原因で傷が化膿して、菌に冒されて、結局、すねの上部から切断した。
この身体では百姓は無理だろうということで、酪農をすることにした。
N町にある酪農の施設で2−3年、研修に行っていた。
こちらに帰ってきたとき、トラックを1台借りて荷台にはホルスタインの2頭がおり、そこから酪農を始めたんよ。
ホルスタインは血統書付きの種牛だった。県内の牛を飼っている農家に出向いて、人工交配の仕事をしていた。
Y兄は普段おとなしいが、怒ると怖い存在だった。
そんな経緯で、Y兄は長男だけど家督を弟のS兄に譲ったわけよ。
分家して家を新築した。

●S兄

S兄はシベリア抑留を経験した、最後の引き揚げ者。
もともと元気者だったから、体力的に弱かった人たちの面倒を見ることを任せられて、最後まで残されたんだろう。
昭和26年の春頃に帰ってきた。
わしらは、S兄の口から戦争体験のことはほとんど聞いていない。
Hさんからは、酒を飲んだときなど、戦争体験を語ってくれたりしたが、S兄からは断片的にちょっと聞くくらい。ほとんど聞いていなし。
当時の生活ぶりなどよくわからない。相当辛い思い出もあるんだろう。
こちらに帰ってきたときは、やせ細っているわけでもなく、普通だった。
帰ってきた次の日からは田んぼで仕事をするほどだった。
町内には同じくシベリア帰りのMさんという人がいたが、その人はやせこけて、骨川筋右衛門じゃった。共産主義の、働かざる者食うべからずで、体調を悪くして働きが少ないと食べ物も制限されて、余計にやせ細ったんじゃろな。

Mさんから聞いた話だと、シベリア鉄道建設にかり出されて、土を掘るのにも凍ってできないから、夜通し木を燃やして土が凍るのを防いだんじゃと。
働けるものは働かす。厳しい状態よ。

●K兄

K兄は戦死したが、軍隊じゃない。開拓義勇団いうて、農地開拓をする人。
満州に渡って農地を開拓したんよ。
この義勇団のことを紹介する先生がいて、その影響で自分から志願して入った。
母親に相談したが、母親から反対された。
それでも行きたかったので、親に内緒で、はんこを勝手に取り出して、判ついて、手続きを自分でやった。
うちと、ほかにKさんとか、3−4人いたかな。
富士の裾野の寒いところで1年ほど訓練を受けてから満州へ渡ったんよ。
14歳の中学2年生くらいの年齢で志願して、15−6歳、高校1−2年生くらいの年齢だった。

終戦になり、捕虜としてソビエトに連れて行かれるわけだが、怪我や病気で動くことのできない仲間が何十人かいたらしい。それらの人の面倒を見ろと言うことで、5人ほど現地に残された。その中の一人が克美だった。元気だったのだろう。
あとで引き揚げた人が、うちのお袋に報告に来てくれたんよ。
そこでみんなの面倒を見たが、食料も暖房も乏しい中でみんな凍死した。
弱っている人と一緒に死んだ。
昭和20年戦死。18歳。

●N兄

昭和7年7月生まれ。
M商業を出て、そこの図書館事務職員をしつつ、M大の夜間部卒業。
わしと違って身体が小さくて、病弱だった。
自転車に乗っても足が届かないくらい。
膀胱炎を患って、M商業まで自転車で通学できんようになった。
おふくろが知人に頼んでM市の家に1年ほど下宿させてもらって、そこからM商業に通っていた。
あの頃はMまで自転車で行って、Tのほうへ行っていたのかもな。
S兄は元気だったので、E大農学部近くの農業学校へ通っていた。

T町に伊予鉄のバスが来だしたのは昭和25、6年ころ。それまでは国鉄のバスで本数も少なかった。

Nは勉強よりほかにはない、趣味のない男だった。
M大の夜間部に行っていた頃、M市で国体があった。
その頃に山岳部に入って、登山が好きになって、年1回くらい、石鎚に行ったり大山(鳥取)に行ったりしていた。
身体を鍛えんといかんと思うて、登山を趣味にしたんじゃろ。

わしはその前から、ボーイスカウトで小学生や中学生を連れてキャンプしたりしていた。
縄の結び方、手旗信号を教えたりした。
中学3年頃には面河から石鎚に登って西条に下りたりしていた。
二泊くらいのキャンプよ。

その頃は農地改革があって、小作人の立場が強くなって、結局、土地を取られてしまった。
わしが中学校卒業する頃よ。
親父からは「もう、M市内の学校にはやれんぞ」と言われた。
小作人からの土地代が入らなくなったからな。
M市の学校にはようやらんぞ、と。
K子は松山の学校に行った方が嫁にも行きやすい。だから、K子は行かせるけど、お前は我慢してくれと言われた。「ええよ」と言った。
その頃、T町に職業訓練補導所ができ、そこで1年間、焼き物の勉強をして、1年たつと窯場に就職斡旋してくれるので、その頃一番儲けていたN製陶所に入った。
昭和26年4月に入って翌27年1月よ。
同時に、県立T定時制高校ができて、そこに入って、2年間で普通科に編入。
昭和30年3月、T高校卒業して、そのときにNをやめてUに入ったんよ。
わしはT中卒業してからは窯業の道に入っていった。

●K子 H

K子は昭和14年3月生まれ。Hは昭和16年11月生まれ。
K子はS高校に入った。卒業して1年ほどM市で事務員をして、そこを退職して、T町の役場に勤めるようになった。
昭和34年2月に母が61歳で亡くなった。
K子は昭和38年に結婚したんよ。
父は昭和44年3月、76歳で亡くなった。
お袋が倒れたことは、K子に連絡が入り、K子からUのわしに電話が入ったんよ。
電話はまだ珍しい時代だった。
その知らせを聞いて、すぐにわしは飛んで帰ったんよ。

Hは中学を卒業すると大阪に就職した。
Kさんの紹介で、たぶん戦友とか、そういうつての紹介だったと思うが、そこに就職した。T中学から二人入社したらしいが、一人はしばらくするとやめたが、Hはずっと勤め上げたんよ。まじめなやつよ。

「子供時代の家族の様子を教えてください」

●子ども時代の暮らしぶり

いま覚えているのは、家には、多いときで23−4人がおった。
大阪のMやろ、東京からK、M市のY、C・・。
それらの子どもが疎開かたがたうちに全部おったんよ。それに、Oの娘三人もな。
戦争の終わりがた、昭和20年のはじめ頃に疎開してきて、3年くらいおったんよ。
22年くらいまで。
順々に帰っていったけど、OのY子さん、T代さんは、ここから学校に通ったりしよったんよ。
一番多いときで、家族を入れてそのくらいの人数がおった。

ご飯時にはみんながだーっと、並ぶんよ。
お袋がまず、子供らにイモのふかしたのを出して、これをお食べよと渡すんよ。
それを食べてからご飯を食べた。
その頃は小作人の人が年貢でお米を納めてくれたりしていたので、米には不自由なかったんよ。
米はあるんじゃが、一升釜で炊いても一回で足らないこともあるので、先にお芋をお食べよと。
お袋と、Mのおばさんと、おばあさんとで台所をしよったんよ。ご飯炊いたり、おかずこしらえたりな。
台所は薪の釜よ。流し、水瓶、があり、そこで3人くらいが一生懸命準備するんよ。
茶の間と畳の間があって、そこでご飯を食べよったんよ。
食べ物に不自由した覚えはあまりないな。

「その時代の忘れられない思い出とか」

●物々交換

M市は焼け野が原になっとるやろ。
身内を頼ってこちらに疎開してきた人たちが、食べるものがないから、その頃は配給やから。
子どもが育ち盛りの家庭の人らは、芋でも、麦でも、大豆でも、手に入れたいから、自分の家の着物や人形とか持ってきて、何か食べ物に換えてくれんかいうて。

なかでも覚えていて、うれしかったことがある。

M市の港町の方からなあ、娘の三人連れがなあ、桶に魚を入れて持ってきてなあ。
まあ、M市からMまで電車で来たんやろうけど、Mからここまで歩いて来たんよ。
家で米や麦を脱穀したりして、表にむしろを敷いて並べて干しよったところ、そこに娘三人が現れて、この魚とお米を換えてもらえまいかと言うてきたんよ。
親父が、あんたらここまで歩いてきたんかいうて驚いてなあ、迎え入れて、手にしている桶を覗いたら、傷みやすい青魚じゃなしに、鯛とか大きなエビもはいっとるんよ。当時でも高級だったが、町中では売れないし、米や麦を手にすることができんので、物々交換しに持ってくるわけよ。
親父はかわいそうにと思って、この子らに米一升やれ、いうて。
そして米一升渡してあげたら、その子らは涙流して喜んでの。
そうした日の夜は、一人に伊勢エビが半分ずつとか並ぶこともあった。

親父は料理ごとが好きで、祭などでは、自分で魚屋まで魚を買いに行って、ブリ一匹下げて帰って、それをさばいて、刺身や煮付けにしよったわい。
そんなことで、男のわしらも包丁を使って手伝わされよった。
だから、子どもの頃から包丁は気にせずに使いよったわい。
包丁が使えるからボーイスカウトでも先生から重宝がられた。

家の二階に箱に入った多人数用の皿や鉢があり、祭ごとや法事の際は、そうした食器を下ろさせて、料理の準備をした。
親父がさばいて、お袋が煮付けや焼き物にしたり、それを親父が皿に盛りつけしていた。
先代の頃からそうしていたようだ。

井戸の横でたらいに水張って、魚を処理するのは男の仕事やった。煮炊きが女の仕事やった。だから、くどの前には男は立つな、井戸の横に男は座れ、といいよったわい。

そのころはあじや鰯の干物、一夜干しなども手に入って、月に何回も魚を口にしよったわい。また、祭ごとのときは鶏やウサギをしめて、タンパク源にしよった。

K地区にはため池が2つ、3つあり、年に一回、田んぼに水がいらなくなったら水を抜いて、そこでとれた鯉や鮒、ナマズなどを組で分け合って、秋の祭の食卓に並びよったんよ。
部落全体が共同社会みたいなもんよな。
鯉も鮒も、できるだけ平等になるように分け合った。
あの頃、ソウギョゆうて、池の保全にもなるからと大きくなる魚を入れとった。
部落のなかでも裕福な家と、貧しい家とがあったけど、あまり分け隔てせずに、とれたものは分け合った。いまよりも、隣近所が一体化しとったわいの。

I家は大地主ではないが、地主の部類だった。
K地区、G地区に、だいぶ土地があったんよ。Hさんほどの大きな庄屋じゃなかったけどな。

●お正月ミカン

わしらが子ども時代は、ミカンは貴重品でな。お正月のお年玉でもあった。
売ってお金にする、現金収入になるもんじゃから、いまみたいに、どこにでもミカンが転がっている状態じゃなかったんよ。
ミカン生産者いうたら限られていた。自分で山を持っているような人が手にできた品物だった。
終戦後は、ミカンがお金になるいうんで、どこも田んぼをつぶしてミカンを植えた。そのせいで、ミカンの味は落ちた。水っぽい味になった。

「お父さんのことでほかに思い出すのは」

●親父の酒

親父は年に2−3回、Kの家に行って、庭木の剪定をしよったぞ。
Kさんも、Hさんも、畑仕事なんかしたことない人やったから、Kにあった畑の草刈りとか、庭木の剪定とか、溝さらえとか、そんなことをするのに親父は行きよった。
姉さん(K)が「今日はこっちで晩酌して、ゆっくり泊まっていってえな」と、いくら誘っても、いつも、いや、帰る言うて、ただの一度も泊まることはなかったと、姉さんが言いよった。

親父は酒は強くなかったけど、好きだった。
ご機嫌になる人で、あるときは、お祝い事の帰り、家にはまだ遠いのに、家が見える、K地区に入るあたりから、「●●―、もんたぞー」いうて、大声でおらぶんよ。
お袋は、近所に恥ずかしいがな、なんで大声でおらぶんぞな、と言うとった。

酔っ払うほどに飲む人じゃなかった。

毎日のことやけど、一日の仕事を終えて帰ってきたら、まず風呂に入ってな、お昼のおかずの残りか、何もなかったらタクワンでも出してきて、杯に二、三杯、飲むのよ。それだけ。
徳利を振って、ちゃぷちゃぷとまだ残っているのを確認できたら、また明日の分もあるのういうて、翌日用に残すのよ。それをまた燗酒。

わしやS兄が仕事から帰ってきて、わしらも酒もらおうやいうて飲みよったら、それを親父がじっと見よるんよ。それに気づいたお袋が、お父さんが大事に飲んで楽しみにしとるお酒じゃけん、あんたらが飲みたかったらこれからでも酒屋に行って買うといで、言うて。
親父の酒を勝手に飲むなと注意してくれた。
親父は酔っ払うほど飲むことなかったけど、毎日、晩酌を楽しみにしていたの。

親父は目くじらを立てたり、おらび倒すような人じゃなかった。
わしらもほっぺたを張りまわされたリ、ゲンコツされた覚えはない。
よっぽど悪いことをすると頭をグリグリしよった。
身体は丈夫で、それこそ、雨の日以外は田畑に出よった。
もう、百姓と庭木いじりが趣味みたいなもんやった。
家に庭木や盆栽がいっぱいあったやろ。
あれも全部、自分で育てて楽しみよったんよ。

親父は大きなコブができて、それがガンになって亡くなった。
小さいうちに取ったらよかったんじゃけど、痛くもかゆくもないので、切るのはイヤじゃ言うて切らんかったんよ。
似たような病気で亡くなった人があり、切った方がいいとすすめたけど、聞かんかった。結局、コブが大きくなり、それがガンになり、転移して死んだんよ。

親父はいろいろ作るのが好きな人やった。
鍬の柄とか、鎌の柄も、全部自分で作りよった。正月のお飾りも、孫が使ういのこまつりのわら細工も、作ってくれよったやろ。
家にはノミとかカンナ類の道具もいろいろあり、五右衛門風呂のふたも、下に敷くゲス板も自分で作っていた。

●焼き物のこと

N製陶所を出て、そのあとH先生と出会うことで焼き物に興味がわくようになった頃、H先生主催で「愛陶会」というのを作った、
月に2回くらい、家にあった古い焼き物を先生に見てもらい、批評したり、勉強する寄り合いだった。親父も参加して、今度はこれを持っていこう、それよりこっちがいいのではないか、とか話したりした。
H先生は、I君ところはいい焼き物があるようだ、ということで、先生を一度家に招待して、お袋が料理を作ってもてなしたことがある。
●●が作った酒器とか、そのほかにもK地区の古い陶磁器があって、先生を囲んで話をした。そんなこともあって、焼き物の興味が深まっていったんよ。

親父は自分で料理した際、この料理にはあの皿、この鉢と、指定していた。
それらを見ているうちに、うちにはこんな器があったのかと、あらためて見た。
親父はわしに感化されて焼き物への興味を深めていった。

わしは高校でH先生と美術の先生の影響で、こうした世界にのめり込むようになった。上野の美学校を出た美術の先生からデッサンとか教えてもらった。
T町の窯業試験場の初代場長にもなったH先生からは窯業の専門的なことを学んだが、この先生は以前勤めていた先で大けがをして肋骨を何本か失い、身体障害者だった。M市Kのほうに住んでいて、酒飲み。先生宅には何度も遊びに行ったし、H先生には可愛がってもろうた。
友達と夜に、M市の町を歩きよったら先生とばったり出会って、こら、高校生がここいらをうろつくんじゃないと言って、自分の行きつけの店に連れて行ってもらったこともあらいの。
詩吟をたしなむ人で、夕方、I地区あたりで川に向かって吟じていた。いい声しとった。

●母のこと

お袋はわしが足悪くなって、思い悩んで、この子と一緒に池に身を投じようかと思ったことがあると、あとで昔話として語ってくれたことがあらいの。
二人の子どもをちんばにしてしもうたと、責任感を感じたんじゃろな。
わしはなんとも思とらんかったけどの。親心じゃの。
8人も子どもを産んで、育てて、大変じゃったと思う。
お袋が死んだとき、Hは二十歳前くらいじゃろう。

もう50年以上も前のことよ。
はるか昔のことじゃけん、うろ覚えよ。

//////////////////
「聞き書き」取材のヒント

話を聞いていく中で、相槌を打ったり、面白そうな話題になると「もうちょっと詳しく」とか、頻繁にやりとりしています。
自由な脱線話も、「聞き書き」ならではの醍醐味です。
聞き手の方は、あらかじめ、質問項目を書き出して準備しておけば、進行もスムーズです。
また、話してくれる方に、あらかじめ質問したいことを知らせておけば、さらにいいでしょう。




NEWS新着情報

2016.6
完成した手作り自分史の複製出版ができるようになりました。
2016.5
サイトリニューアル
2014.5
PDF版配布開始

バナースペース






















NPO法人

じぶんで作る自分史の会

http://www.npo-jibunshi.com
info@npo-jibunshi.com

当会のブログはこちら